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まずはテーブルの中央にボードを広げましょう。話はそれからです。

古典落語の理屈から無理矢理ボードゲームを眺めてみる

 

※この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2016 10日目の記事として書かれたものです。

www.adventar.org

 

 

 ▲イントロダクション

ysk(ワイエスケー)と申します。お世話になります。普段は、北陸地方を中心としてボードゲームで楽しんでおります。

当初は、今年のGM神戸にて初出となった、私にとって初めての創作ゲーム「ノコスダイス」についてのデザイナーズノートを書くつもりでした。

Nokosu Dice (ノコスダイス) | Quoth Games | ゲームマーケット

しかし、そういった過去の振り返りレビューは、どうやら性分に合わないらしく、遅々として筆が進みません…。

なので、お題をガラッと変えて、「人はどうしてボードゲームを遊ぶと楽しいのか」「その楽しさを生み出しているのは何か」について、最近思っている事をつらつらと書き留め、お茶を濁したいと思います。ボードゲームデザインを考える上で、何かヒントの一つとして頂ければ幸いです。

 

▲「業の肯定」と「緊張の緩和理論」

ボードゲームで遊ぶようになって丸6年ほどになりますが、それ以前から好きな趣味も幾つかあります。クラシック音楽、テクノ、ラーメン、メイドカフェ…。そして「古典落語」です。

落語が好きな方の中には、上記の小見出しを見てピンときた方も多いかと思います。「業の肯定」とは、七代目(自称五代目)立川談志が、「落語とは何か」を定義する際に使っていた言葉です。そしてもう一つの「緊張の緩和理論」は、二代目桂枝雀が唱えた落語理論です。

これらの定義および理論を使って無理矢理ボードゲームを眺めてみよう、というのが本記事の骨子です。「可笑しい」と「面白い」。種類の違いこそあれ、人に何か新たな感情を呼び起こすコンテンツとしては、落語もボードゲームも共通点があるのですから、何かしら新たな視座の発見があるかもしれません。

 

①「人間の業の肯定」とボードゲーム

■「業の肯定」とは

人間は元々どうしようもない生き物である、という一つの見方があります。人間には、他人を騙し、周りを蹴落とし、自分が一番優位に立ちたいという本能的な、根源的な欲望があるはずだ、という見方です。これを「人間の業」と定義しておきます。本当はもっと色々な要素を含んでいますが。(楽したい、怠けたい、分かっちゃいるけどやめられない etc.)

こんな願望をみんなが前面に出してしまっては、社会という枠組みが崩壊してしまいます。そこで、各々が「理性」というものでこれらの欲望にふたをし、「常識」という不文律と「法律」というルールをこしらえて、人間社会が壊れないようにしているという訳です。

しかし、普段ふたをしている欲望は、時々ひょっこり顔を出したがります。欲望を発散させたくなる時があります。本能的な、根源的な欲望ですから、満たされると快楽を得ます。世の中の多くのエンタテイメントは、これら欲望の発散に寄与している、という捉え方が一つあるかと思います。

「人間の業」を、刹那ではありますが「肯定」してくれる訳です。「そうそう、元々人間って、どうしようもない生き物だよねー」と。

では、ボードゲームというコンテンツを、上記の視座から考えてみましょう。やっとボードゲームと繋がります。前置きが長いですね…。

 

■ブラフや正体隠匿の要素があるゲーム

真実とは違う言説をまことしやかに掲げ、他人を惑わせ誘導し、騙し、自分をより優位に立たせる。

こういう所業は、ボードゲームという仮想の空間内であるからこそ許されます。ここで「優位に立つ」とは、「よりゲームの勝利条件に近づく」と言い換えて良いでしょう。現実世界で行えば、当然非難の対象となります。まー、それでも平気でやっている人もいるでしょうが…。

他人を騙して優位に立ちたいという人間の業が、ボードゲームの時空間内では肯定されています。もちろんゲームタイトルによりますけどね。(正確にはルールによる。)

 

■個人攻撃や強いインタラクションの要素があるゲーム

ある他人を任意に指定し、その対象に不利益を被らせる。

現実世界では当然やってはいけない事ですが、ボードゲームの世界で行っても、お咎めはありません。ここでいう「不利益」とは、例えば所持しているリソースや得点を奪われる事を指します。

周りを蹴落とし自分が一番になりたいという人間の業が、ボードゲームを遊んでいる間だけは肯定されます。

直接的な個人攻撃ばかりでなく、例えば「下手を絞める」「トップを絞める」ようなインタラクションも同様な見方ができると思います。

コロレットで、下手が欲しい色のカードがある列に、不要な色のカードを足したり…。
プエルトリコで、他プレイヤーのコーンが余って腐ってしまう事が自明な上で、出港アクションを選んだり…。

「あなたとあなたを攻撃します」と明言していないだけで、行っている事は同質です。現実社会では意地悪とも邪魔とも形容できるこれらの行動は、ボードゲームの盤上においては肯定されています。

 

■①の締め

ボードゲームを遊んでいて、なぜ人は楽しいと感じるか?それは、短い時間ではあるが「人間の業」を肯定してくれるからだ、という見方を提示してみました。

逆に、ブラフゲームや正体隠匿ゲーム、個人攻撃があるゲームが苦手な方もいるかと思います(私もその一人です)。なぜ苦手なのか?なぜ楽しいとあまり思えないのか?その答えを探る一助としても、上記のような解釈が一つ役に立つような気がしているのですが、如何でしょうか。

 

 

②「緊張の緩和理論」とボードゲーム

■「緊張の緩和理論」とは

「笑いとは緊張の緩和である」というのが、桂枝雀が唱えた理論です。

緊張の緩和理論では、私たちが過ごしている日常の世界を「ホンマ領域」と呼びます。「ホンマ領域」は、例えばドーナツのような、中央に空間のある形状をイメージします。そして、その内と外に、それぞれ「合わせ領域」「離れ領域」という領域を定義します。

ホンマ領域は普段の日常ですから、人々は緊張する事はありません。しかし「合わせ」「離れ」の領域に入ると、それは非日常な世界ですから、人々は緊張する訳です。

「離れ」とは、荒唐無稽な、或いは混沌とした世界の事を想像してもらえれば良いかと思います。例えば、お日様が西から昇って東へ沈み、豚が空から降ってくるような世界です。

それに対して「合わせ」は、何もかもが都合よく、ぴったり整合性が取れているような世界です。駅に着いたと同時に、ちょうど空いた電車がホームにやってくる…。たまたま入ったお店で、ちょうど自分が1万人目のお客さんとなり記念品をもらう…。

我々が普段過ごしている「ホンマ領域」では、色々な人や物事は、実のところすれ違い、ねじれの関係にあるものです。あまりに無駄がなく理路整然としている世界は、それはそれで非日常性がある為、人々は緊張するのです。

「ホンマ」の世界と「合わせ」「離れ」の世界を行き来する時に、人間は緊張と緩和を生じ、そこから新たな感情が発生するのだというのが理論の概要です。

では、ボードゲームというコンテンツを、上記の視座から考えてみましょう。

 

■リソースマネジメントやハンドマネジメントの要素があるゲーム
マネジメント要素のあるゲームは「離れ⇒合わせ」へ領域が推移すると捉えられます。

ゲーム開始時の、数多の情報がひしめき合って一瞬では状況の整理がつかない、混沌した「離れ」。そこから各プレイヤーは、例えば、無駄なく手札やリソースを使い切り、あるいは当初の方針通りからぶれないように一貫性のある行動をとりながら、勝利条件へ突き進んでいきます。無駄のない、整理された「合わせ」の領域へと向かっていく訳です。

ゲームが終われば、当然人々は「ホンマ」の世界へと戻ります。離れ⇒合わせ⇒ホンマへと領域が推移する事で、緊張と緩和が生じ、楽しいという感情が生まれます。

 

■「私の世界の見方」や「テレストレーション」

大喜利系やコミュニケーション系、お絵描き系のゲームは、「合わせ」よりも「離れ」の要素の方が大きいかと思います。

「私の世界の見方」で次々に登場する、意外な言葉の組み合わせによる文章。「なんだよそれ!」と突っ込みたくなる、その荒唐無稽な想像の世界は、瞬間ではありますが、プレイヤーを「離れ」の領域へと誘っていきます。

「テレストレーション」では、絵と言葉の伝言ゲームにより、当初のお題が予想だにしない方向へとシフトしていきます。その「離れ」への推移が、楽しいという感情を生み出します。

あと、このゲームでは、最後の最後で、元のお題にもう一回立ち戻ってくる奇跡が起こる事がありますよね。非常に盛り上がる場面です。これは「離れ⇒合わせ」へと推移した結果だと捉える事もできるでしょう。

 

■②の締め

ボードゲームを遊んでいて、なぜ人は楽しいと感じるか?それは「離れ」と「合わせ」の領域を行き来させる事で「緊張と緩和」を生じさせているからだ、という見方を提示してみました。

領域の推移の振れ幅が大きいほど、プレイヤーの感情をより大きく揺さぶらせる事ができるのではないか?推移のリズムやテンポの違いは、プレイヤーにどういった影響を与えるか?色々なボードゲームについて、上記のような目線で眺めてみるのも面白い気がしているのですが、如何でしょうか。

 

▲最後に

古典落語の理屈2つを使って、無理矢理ですがボードゲームを眺めてみました。

①の視座は、ボードゲームデザインでも時々出てくる「プリミティブ」の要素を理解する上で、一助になりそうな気がしています。また、②の視座は、「収束性」「ハプニング要素」といったワードと親和がありそうです。自分の中ではまだ整理できていませんが…。

以上、取り留めない内容となりましたが、ここまで読んで頂き、有り難うございました。

 

 

さて、11日目の記事は桜遊庵さんです。バーストやハンドマネジメントやトリックテイク、ピック&デリバーやアクションポイントなどの骨太なゲーム要素を、「和」で統一した綺麗なアートワークで包んだゲームを毎回出されているサークルです。どんな内容なのか、個人的にも大変楽しみです。